1926年
10月15日ポワティエ市にて、外科医の父ポール・フーコーと母アンヌの間に生まれる。本名は
ポール=ミシェル・フーコー。フーコー家の男子は代々「ポール」という名前が与えられ、1926年に生まれたばかりの男児にも同様に名付けられるはずだったが、母のアンヌがフーコー家の伝統に強硬に反発。結局、「ポール」に「ミシェル」を連接符号で繋げ、「ポール=ミシェル」と命名された。
第二次大戦中は
ドイツ軍の占領により母方の祖母レイノー・マラペールのもとへ
疎開。1943年6月バカロレア(大学入学資格試験)に合格。進学先について父と対立。父は
医学部を奨めるが、本人は文学を希望、母の説得に父が折れる。このときの対立から生じた父との亀裂は終生、修復されることはなかった。後にフーコーが自分の名前から父の「ポール」を外してミシェル・フーコーと名乗るのも、このときの体験に根差している。
1945年
高等師範学校(Ecole Normale Sup?rieure)の試験を受けるも不合格、翌年同校合格。フーコーの学生生活は
同性愛者としての苦しさと、エリートとしての息苦しさにより不安定で、1948年、自殺未遂事件を起こす。1950年大学教員資格試験に失敗。1950年6月17日には再び自殺未遂事件を起こす。この時期の失意と精神的混乱にあったフーコーを助けたのが
ルイ・アルチュセールである。アルチュセールは医務室をフーコーの個室として手配する措置をとるなどして、フーコーは危機を乗り越えた。アルチュセールはフーコーに、「精神分析によってではなく、仕事によって病気を乗り越えるように」とアドヴァイスしたという。
1970年コレージュ・ド・フランス教授となる。「主権権力」と対比される「規律訓練型権力」の徹底的な分析である『監獄の誕生』を著した後、『知への意志』(『性の歴史』第1巻)において精神分析を批判する。その後コレージュ・ド・フランス講義で「統治性」「
生政治」などの試行的な概念を次々と扱う。やがて(『性の歴史』第2巻、第3巻)『自己への配慮』、『快楽の活用』でギリシャ・ローマ時代の「自己への配慮」の研究を行う。1984年、道半ばにして
エイズで死去。コレージュ・ド・フランスにおける1984年の講義タイトルは「真理への勇気」。