1469年に、チロル領主
ジークムントはシャルル突進公と共にスイスの拡大を防ぐため、アルザスにある自分の領地を抵当としてブルゴーニュ公に譲渡した
[U.イム・ホーフ、p.60。]。しかしシャルルのライン川西岸との関係は、ジークムントが望んだようにスイスを攻撃する動機とはならなかった。シャルルは
バーゼルや
ストラスブール、
ミュルーズなどの都市に対抗して通商の禁止を代官
ペーター・フォン・ハーゲンバッハ()に行なわせた。ハーゲンバッハは圧政を布いたため、ブルゴーニュに対する都市の住民の反感は強いものになり、都市は
ベルンに救援を求めた。シャルルの拡張戦略は1473年から1474年にかけて行なわれた
ケルン大司教に対する攻撃、
ノイス包囲戦()の失敗で初めて挫折した。
1474年ジークムントはスイスとの和平を画策し、
コンスタンツで後に「永久協定」(Ewige Richtung)と呼ばれる協定を結んだ。その一方で、ジークムントはシャルルに譲渡した領地を買い戻そうとしたが、これは拒絶された。同年4月30日、アルザスのブリザックで反ブルゴーニュ派に捕えられたハーゲンバッハが斬首刑に処された。アルザスやスイスの都市とジークムントは結束して「対ブルゴーニュ同盟」を結び、同年11月13日
エリクールの戦い()で勝利し、フランシュ=コンテの
ジュラを征服した。翌1475年にはベルン軍がシャルルと同盟関係にあった
サヴォイア公国の
ヴォー地方を征服して破壊した。
ヴァレーでは1475年11月、
プランタの戦い()で独立共和国ジーベン・ゼンデンが、ベルン軍や他の同盟国の助力によりサヴォイア人を低地ヴァレーから駆逐した。1476年3月、シャルルは報復のためにサヴォイアのピエール・ド・ロモンの領地
グランソン()へ進軍した。そこは同年1月にブルゴーニュ軍が攻略した際に投降したスイス兵を見せしめのために絞首刑にし、湖で溺死させた因縁の地だった
[J.カルメット、p.411]。スイス同盟軍が数日後に同地に到着し、シャルルは
グランソンの戦いで手痛い敗北を喫した。彼は戦場から逃げざるを得なくなり、大砲や多くの糧食や財宝を残して撤退した。新たに軍を再編成したが、シャルルは再び
ムルテンの戦い()でスイス軍に敗北した。1477年、シャルルはナンシーの戦いで
ロレーヌ公ルネ2世が率いるロレーヌ軍と彼に従うスイス兵と交戦し、戦死した。